「エスケープ」  藤次郎は顔は正面を向けたまま、少し首を隣に座っている玉珠の報に傾けて、  「お玉…」 と小声で言った。  「?」  玉珠も顔は正面を向けたまま、目線だけを藤次郎の方に向けた。  「ふけるぞ」 と藤次郎が言うと、玉珠はコクンと頷き静かに藤次郎の後ろにある藤次郎の鞄を引き寄せ た。そして、それを自分のトートバックに隠すようにして、静かに立ち上がり、トイレに 行く振りをした。しばらくして、藤次郎のPHS電話に短いコールが入る。藤次郎はそれ を確認してから、  「…ちょっと…」 と言って、トイレに行く振りをした。  その際、後輩の佐竹の横を通り過ぎるときに、藤次郎は佐竹の肩を叩き、片手で拝むよ うな仕草をした。佐竹は一瞬嫌そうな顔をしたが、黙って頷いた。  この日は、藤次郎の会社が納品したシステムの慰労会があった。プロジェクトは成功裏 に終わり、上層部も機嫌が良かったので、このプロジェクトに関わった部門と関係協力会 社の人達も集めての大宴会になった。このプロジェクトには、藤次郎と玉珠のコンビも参 加していた。  「あら、以外と早かったのね」  居酒屋の出口には玉珠が待っていた。藤次郎は玉珠から自分の鞄を受け取ると、そのま ま二人は居酒屋を後にした。  「まぁね。部長の演説が始まったから、会社の偉いさんも捕まっていたので気づかれな かったよ。部長も、あれがなければいい人なんだけど…」 と、藤次郎は渋い顔をした。  二人並んで歩きながら、  「どうする?飲み直す?」 と藤次郎はグラスを傾ける仕草をした。  「いいわね」 と玉珠が微笑んで応じると、  「どこに行こう」  「居酒屋はもういいわ、それよりBarに行かない?」 と言って玉珠は藤次郎の袖を引っ張った。  「Bar?」  「うん、以前この近所でしゃれた雰囲気のBarを見つけて行ってみたかったのよ」  「でも、テーブルチャージ料とか高いんじゃないか?」  「あら、臨時ボーナス入ったんでしょ?知ってんだから…」 と言って、玉珠は下から覗き込むように藤次郎の目を見つめた。  「だっ、誰に聞いたの?」  藤次郎は狼狽えた。  「素子ちゃん」  それを聞いて、藤次郎は「あのおしゃべり!」と後輩の毛利素子の事を思った。  「チャージ料、高くないらしいわよ」  「知ってるの?」  「実はね、それも素子ちゃんから教えて貰ったの」  それを聞いて、藤次郎は独りでBarのカウンターに座り、カクテルグラスを傾けてい る素子の姿を想像した。  「そういえば、彼女この近くに住んでいるんだっけ…」  「らしいわね」  玉珠が白々しく言った様に聞こえて、藤次郎は「毛利め…そそのかしたな」と思った。  玉珠の案内で、素子が紹介したBarに入った。落ち着いたカウンターバーでお客は静 かに飲んでいた。席に着くなり、  「いらっしゃいませ、何にいたしましょうか?」 と、物静かに聞くバーテンダーに対して。  「俺は、スティンガー。お玉は?」  「サイドカー」  二人とも、食後のカクテルを注文した。  「かしこまりました」  静かな店内に音量を抑えたジャズの音楽とシェイカーの音が鳴る。やがて出されたカク テルグラスを手に持って、  「では、改めて乾杯」 と二人はグラスを合わせた。  藤次郎と玉珠は他愛もない会話をしてひとときを過ごし、Barを出てから藤次郎が PHSの着信履歴を見ると、案の定、留守番電話着信のメッセージが入っていた。  藤次郎が留守番電話サービスに確認すると、  「宗像です。萩原君、逃げたわね。あした酷いわよ!」  「上杉です。萩原さん、何処にいますか?至急連絡下さい!」 と言う様な伝言が数回あった。  「…やれやれ…あした大変だ」  頭を掻きながらぼやく藤次郎に対して、  「ご愁傷様」 と言って、玉珠は思わず吹き出してしまった。  一方、玉珠の携帯には  「お二人で仲良く…あとは任してください」 と素子からのメールが入っていた。  「…気を利かせてくれたのね」 と玉珠は素子に感謝した。  藤次郎は玉珠を連れて自分のアパートに帰った。玉珠は洗面所に行き、棚から自分の化 粧道具の入ったポーチを取り出した。  「あのBar、いい雰囲気だったわね」  化粧を落としながら、玉珠が言った。その横から藤次郎は手を伸ばしてカップに水を注 ぎ、うがいをしながら、  「そうだね」  「また行きたいわぁ」  「うん」  洗面所で化粧を落とし、顔のしわを見ている玉珠を見て、  「お玉…」  「?」  鏡越しに藤次郎を見る玉珠に対して、藤次郎が、  「ふけるぞ」 と行った途端、  ”ガンッ”  藤次郎は怒った玉珠にヘアムースの缶を投げつけられた。 藤次郎正秀